考え方を認める「思考へのストローク」100%同じ考え方の他人は100%いない

プラスのストローク


考え方を認める「思考へのストローク」

あらゆる生物の中で、自分自身を騙(だま)せるのは、人間だけです。

自己欺瞞と言い換えれば悪意を含んでいるように聞こえますが、自分で自分を騙すのはプラス思考と紙一重。

たとえば肥満型の人が、自分の太鼓腹を眺めすがめつ、

「なんと醜い体形なんだ。情けない」

と自分をいじめ苦しめるよりだったら、

「まるで、布袋様のように福々しい太鼓腹だ。布袋様ってことは、無病息災まちがいなし」

と愛でるほうが、精神衛生上よろしい。

精神衛生には宜しいでしょうけど、体にとっては甚(はなは)だ宜しくありません。無病息災どころか、すぐにダイエットを始めなければ、生活習慣病になってしまう。

その危険性を、プラス思考によって潜在意識下へ閉じ込め、自分の太鼓腹を「福々しい」と是認し、正当化してしまうわけです。

それほどまでに、人間は、ものごとを複雑に考えることが出来ます。海苔のように何も考えずに働いている人など皆無といってよく、人間である限り、老若男女を問わず、何らかの要望や、意見、思惑、目標、信念、疑問について複雑に考えています。その考え方は千差万別。

人は人。あなたはあなた。まずは相手の考え方を認めよう

たとえば、宝くじ3億円に当ったら?と問われて、

  • 「老後に備えて貯金します」という人もいれば、
  • 「買いもの三昧で豪勢に使います」という人もいれば、
  • 「勤めを辞めて世界旅行へ出かけます」という人もいれば、
  • 「全額を慈善団体へ寄付します」という

人もいます。こうした考え方、意向、所思、定見、思案が人間の思考であり、それは百人十色です。

あなたにとって「そうだ!そうだ」と共鳴できる意見もあるでしょうし、「アホちゃうか!」と信じられない意見もあるでしょう。

しかし、どの意見にも正誤は無いのですから、頭ごなしに否定する必要はありませんね?人は人。あなたはあなた。

100%同じ考え方の他人は100%いない

もしも、相手の考え方を認められないとしたら、その理由は単純。あなたとは考え方が異なるからです。が、よくよく考えてみて下さい。すっかり同じ考え方の人間が、世の中に何人いると思いますか?

最も近いのは親子。けれども、生きる時代も環境も異なりますし、父母それぞれの遺伝子を受け継いでいますから、親子といえども、まったく同じ考え方であるはずがありません。

赤の他人ともなれば尚更です。総論は同じでも各論が異なったり、Aというテーマでは同じでも、Bというテーマにおいては異なる。このように、似た考えの人は大勢いても、あなたと100%同じ思考の人間などいない。思考は指紋と同じなんですよ。一人に一つ。同じものはない。

ならば、先ずは、あなたと違う考え方を否定する前に「それもアリかも知れない」と認めてみてもバチは当らんのと違います?

もちろん、邪悪な考えを認めるわけにはいきません。人間として正しく、美しく、明るく、清らかな、暖かい思考を認めましょう。それは、性格でも人柄でも構いません。

  • 「面白い考えだ」
  • 「思いやりがあるね」
  • 「いい心がけ」
  • 「その感想は素晴らしい」
  • 「気くばりが上手」
  • 「優しい」

どれもこれも、ありふれた言葉です。その、ありふれた、たった一言が、プラスのストロークになります。

言動で表現された思考を肯定する

人の考え方は、言葉か行動になって表現されます。ということは、どのように認めたら良いか分らなくても、相手の言動を引用するだけで認めることができます。

弱者を救いたいと言ったら、「いいことを言う」「そういうことを言うのは好きだなあ」

ゴミを拾ったら、「エライなあ」「そういうことをするとは、大したものだ」

と、意見でも、見解でも、意識でも、行動でも、振る舞いでも、動作でも構いませんので、相手が考えていることや、実行した事実を認めてあげて下さい。

思考を認めるにあたって、容姿や外見は関係ありません。職業や経歴も関係ありません。性別も年齢も関係ありません。

思考と、思考から導き出される行動は、その人の人間性そのものですから、相手の言動を認めることが、相手の人間性を認めることになります。

思考が脳そのものであることは、脳死が死と法制化されていることでも分ります。考えるから人間なんです。

哲学者パスカルも言っていますね?「人間は考える葦である」と。

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