鳴かぬなら〇〇ホトトギスを面白く作ったのは連歌師か

著者のエッセイ

連歌師が呼んだ?鳴かぬなら○○ホトトギス

  • 殺してしまえ
  • 鳴かせてみせよう
  • 鳴くまで待とう

わずか七文字で性格を表現する言葉遊びのプロ・連歌師の存在が見えてくるまで、今から6分後。

(読み終わるまで約6分)

鳴かぬなら 殺してしまえ 時鳥(ほととぎす)by織田信長

三人の戦国武将へ、ある人がホトトギスをプレゼントしました。鳴かないホトトギスを見た

  • 短気な織田信長なら「殺してしまえ」と詠む(よむ)だろう
  • 才覚の豊臣秀吉なら「鳴かせて見せよう」と詠むだろう
  • 忍耐の徳川家康なら「鳴くまで待とう」と詠むだろう

という想像上の作り話。

出典は、随筆『甲子夜話』(かっしやわ)と伝えられています。

筆者は、平戸藩の九代藩主だった松浦清(まつうらきよし)さん。号は静山(せいざん)

松浦清(まつうらキヨシ)、音がマツモトキヨシに似ていますね(笑)

現代でいうなれば、長崎県平戸市のマツウラ市長が書いたエッセイのようなもの。

甲子の読みは干支(えと)で「こうし」「かっし」「きのえね」どれも間違いではありませんが、松浦さんは「かっし」を選んだようです。

鳴かぬなら 鳴かして見せよう 杜鵑(ほととぎす)by豊臣秀吉

随筆集ということは、松浦さんイコール作者のように思われがちですが、日記のようなものですから、松浦さんが見聞きした話を、一つ一つ書き留めたという意味での作者、記録者です。その記録者が、

  • 織田信長を、織田右府。右大臣という朝廷の役職名。
  • 豊臣秀吉を、豊太閤。太閤という朝廷の役職名。
  • 徳川家康を、大権現様。家康のみ朝廷の役職名ではなく、大いなる+神号+様。

と書き記している通り、徳川家康のみ別格あつかい。

それもそのはず、松浦さんは、江戸時代の終わり頃、徳川幕府の大名(徳川家の家来)でしたから、約200年前の始祖の家康は、神様です。

今でも、日光東照宮に神様として祀られていますよね?

鳴かぬなら 鳴くまで待とう 郭公(ほととぎす)by徳川家康

甲子夜話(1821~1841年)よりも、少々、古い、随筆集の耳袋(みみぶくろ)(1784~1814年) に、
連歌(れんが)其心自然に顕れるる事いまだ郭公を聞ずとの物語出けるに 
(連歌には、詠む人の心が、自然と、顕れるんだが、まだ、ホトトギスの鳴き声を聞いていないよね~という話題が出た時のこと)

※(カッコ内)筆者意訳

信長、鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

と有りしに(信長は、鳴かないなら 殺してしまえ ホトトギス と詠み)

秀吉、啼かずとも啼せて聞ふ時鳥

と有りしに(秀吉は、啼かなくたって 啼かせて聞こう ホトトギス  と詠み)

なかぬなら啼時聞ふ時鳥

と遊ばされしは神詠の由(なかぬなら 啼いた時に聞こう ホトトギス と、神は、お詠み遊ばされた)と、

佐渡奉行(さどぶぎょう)の根岸鎮衛(ねぎししずもり)さんは書きました。

今でいうところの新潟県佐渡島の市長にあたる根岸さんは、こう続けます。

自然と其御徳化の温純なる、また残忍・広量なる所、其自然を顕はしたるか(詠む人の温和さ、おだやかさ、素直さ、また残忍さ、細かいことに こだわらない 心の大きさが、連歌には、自然と、あらわれるのかもね~)

と、遠まわしに、徳川家康を褒めちぎっています。

佐渡は、幕府の直轄領につき大名は不在ながら、佐渡奉行といえば、佐渡一国を治める大名のような存在。平戸のマツウラ清さんも大名でしたよね?

大名ら直臣にとって、最も恐ろしいのは、幕府からの命令。その一つが、改易。領地没収とか。

中央政界の江戸城に阿った(おもねった)

ホトトギスが詠まれたとされる1780年代~1840年代の半世紀といえば、折しも、

  • 田沼意次が政権を恣にしたり、
  • 腐敗した幕府に反旗を翻す大塩の乱が起きたり、

幕権が強力な頃ですから、幕府の家来だった根岸さんも、松浦さんも、信長と秀吉の個性を引き合いに出し、祖の家康をヨイショした風に見せかけ、じつは、

遠く離れた江戸城の中央政権に阿った(おもねった)

自分は従順。敵意ないよ~とアピールしたのが、句を記録した背景とみていいでしょう。いつどこで、濡れ衣を着せられ、お家とり潰しとか、目を付けられちゃ、適いませんので。

ぶっちゃけ、幕閣(中央政権)に対し、ビビっていたので、おべんちゃら使ったのでしょう、障子に耳ありですから。

ご自分の日記が、没後、幕府の目に触れることを予想して書き、子々孫々の繁栄を図った、世渡り上手というより、侮りがたい戦略家の思考回路。

生前、自らの死後の影響力まで考え、日記を書いた大久保利通と同じ戦略だったようです。

鳴かぬなら〇〇ホトトギスの作者は連歌師だった?

耳袋が終わる1814年から、甲子夜話が始まる1821年まで、7年間の空白があります。

この7年間にヒントが眠っていて、その間、あるいは、7年間の前後に、

  1. 北陸の新潟から、九州の長崎まで、徒歩で、いくつもの関所を通り抜けられる特殊な職業に就き、
  2. 全国の大名クラスの殿様たちに招かれ、
  3. 200年前の歴史(戦国武将の人物像)の知識があり
  4. 発句・挙句など和歌のルールを知っていて、
  5. 五・七・五に整える言葉遊びの能力があり、
  6. 「鳴かぬなら?」というお題を作ることが出来、
  7. 信長・秀吉・家康の三英傑を比較し、話して聞かせられる、

誰かが、平戸の松浦市長や、佐渡の根岸市長に、詠んで聞かせたのでしょう。それを、平戸市長や佐渡市長が、

「面白い」と随筆に書き留めた

という背景。なので、2人の市長を訪れる7年間の空白があったと推理できます。

上の7つの条件を兼ね備えていた誰か?とは、おそらく、連歌師。

佐渡市長も「連歌其心自然に顕れるる事」と、ハッキリ、連歌と書き残しています。

連歌師を招いて催す連歌会は、政界の情報交換会

連歌師は、和歌の師匠のみならず、大名や公家のメッセンジャーボーイでもありました。

情報交換会を開いていると、密やかに、仲介、調停、斡旋の話が出るのでしょう。その話を大名家から大名家へ、大名家から公家へと、伝えるために、関所はスルー。

連歌の会は、地方の大名にとって、数少ない情報源でした。新聞も電車もない時代ですから、世の中の動きを教えてくれる情報屋は重宝されたでしょう。

7年間あちこち寄り道していたはず。その寄り道が、メシの種になる(諸国の情報を諸大名は聞きたがる)ので。

7年かけたのは、メッセージを伝えるためは勿論、旅費や米塩を稼ぐ目的で、他の大名家にも立ち寄り、ホトトギスの話を語って聞かせていた。

しかし、聞いた他の大名は、記録しなかった(随筆に残らなかった)だけの話。

(もしかしたら、どこかの家に、ご先祖様の随筆が眠っているかも知れませんが)

七文字で性格を表した言葉遊びのプロは連歌師

  • 鳴かぬなら(五)鳴くまで待とう(七)ホトトギス(五)
  • 鳴かぬなら(五)鳴かせてみせよう(七)ホトトギス(五)
  • 鳴かぬなら(五)殺してしまえ(七)ホトトギス(五)

つまり、この三つを作ったのは、今に名を残さなかった連歌師の可能性があります。

歴史にIF(イフ)はありませんが、

  • 五七五の五(初句と結句)は変えず、
  • 七(二句)のみ変え、
  • わずか7文字の変化で三英傑を対比させ、
  • 面白おかしく作り変える

とは、まさしく、言葉遊びのプロフェッショナルだった連歌師ならでは。

お見事!と脱帽する他ありません。

以下余談。七文字の二句を作ってみましょう。

織田信長の子孫で、フィギュア・スケーターの織田信成さんは、

鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス

と詠みました。そこで、筆者も一句。

鳴かぬなら 空へ帰そう ホトトギス

いかがです?あなたも一句。連歌には心が顕れる(連歌其心自然に顕れるる)そうですよ?

※ 信長、秀吉、家康、ホトトギスのユニークなイラストは「いらすとや」さんからお借りしました。https://www.irasutoya.com/

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