職場の人間関係を円滑にする方法
・価値観の異なる相手を「田舎者あしらい」することで、
・お互いの価値観を、理解したり、理解される作業を放棄して、
・付かず離れずの距離を保つこと
が、職場の人間関係を円滑にする方法だと既述しました。
職場のみならず、人間関係全般について言えますよね。後編では
・気に入った人間ばかり集う職場なんて有り得ない
現実を知っておき、
「こういう上司もいるよな」とあきらめたり、
「こういう同僚だっているよな」と納得したり、
「こういう部下がいるんだな」と許すことで、
こういう人であって欲しいという我欲を捨てる
付かず離れずの絶妙な距離を保つ方法であることを述べました。
あなたの欲の通りに動く職場仲間がいるワキャありませんからね(笑)
他県からの流入者を江戸っ子が「田舎者」と呼ぶに至った歴史的な背景に触れることで、田舎者あしらいする罪悪感を払拭して、田舎者呼ばわりすることが果たして「どういうことか」まとめてみたいと思います。
田舎者あつまる江戸東京
田舎者の悪いイメージを払拭すべく、少し歴史的な背景に触れておきましょう。
江戸時代、日本人口の約90%の人(農民、職人、商人)は、自分が住む藩の外
へ原則として出られませんでした。
例えば、九州は佐賀藩(佐賀県)に生まれたら、死んでも佐賀県の外へ一歩も出られなかったんです。今じゃ信じられませんよね。
特に、人口の約80%を占める農民は、幕藩体制の基礎となるコメを作るために土地にしばられていました。
加えて士農工商の身分制度がありましたら、武士は武士同士、農民は農民同士で付き合い、階級を超えた人づきあいは皆無でした。
祝儀や婚姻などが典型的で、たとえば、武士の家に生まれた人と、農家の家に生まれた人は、結婚できなかったんです。これも今では信じられません。
ところが、明治維新によって藩が無くなり、四民平等になり、薩摩弁と津軽弁ほどに違いのある方言や、職業や、気候や、生活習慣の異なる人々が、東京へドッと一極集中するようになりました。
藩が無くなって「藩外へ自由に転居できるようになった」というよりも、維新を牽引した雄藩ら(薩長土肥)の志士たちが、官途を得て、田舎まみれのまま東京へ集まって来たんです。
方言が集まる首都
つまり、鹿児島、山口、高知、佐賀の出身者をはじめ、明治革命政府の樹立に奔走した志士達が、東京政府の一員として、たとえば警官として、役人として、官僚として、東京へやってきて威張りちらすんですから、江戸っ子にとっちゃ、たまったもんじゃありません。
たとえば、道端にたむろしていると、警官が職務質問してくるわけですよ。
江戸弁なら「お前ら、なにやってんだ?」となるところ、方言の抑揚でもって
- 薩摩弁の警官ですと「わいら、なにしじぁ?」
- 長州弁の警官ですと「おまえら、なにしちゅら?」
- 土佐弁の警官ですと「おんしら、なにしちゅう?」
- 肥後弁の警官ですと「わっどみゃ、なんばしよっとか?」
いきなり、方言のイントネーションで質問されたら、誰だって戸惑いますよね。
「はあ?」ってなモンです。
すると、言葉の通じない薩摩警官は怒る。「バカにしじぁかあ!」
なかには警棒で殴る警官もいたでしょうよ。
しかし、相手は官。
今の官とは意味合いが異なり、有無を言わせぬ強権を持っていましたし、つい数年前まで、日本刀を振り回していた連中もいました。
とうぜん、江戸っ子たちは逆らえません。「田舎者だから」と諦めたり、納得する他ありませんでした。
これが、江戸っ子をして、地方出身者を受け入れる素地になったと私は考えています。
「田舎者」とは「理解できない人」
そこで、
「これじゃ混乱する」
と、標準語が生まれたわけです。
なにせ、言葉が通じないんですから(笑)そりゃあ混乱するでしょう。
言葉だけじゃありません、縦に長い日本列島の各藩が特産物としていた、
- 食べ物も大きく異なれば(コメや麦などの炭水化物は一緒ですが)、
- 服装も異なれば(洋服の着用など)、
- 他人の領域に遠慮なく踏み込む農本文化も異なれば、
(五人組のように、協業していた本百姓には、家の境の垣根など、あってないようなもの)、
・出身地方の通俗や習慣で物事を考えるワ、
さあ大変。
しかし、言葉が通じないといって、法に触れるわけじゃありません。
そこで江戸っ子は、地方出身者との会話が通じなかったり、蛮行を見るにつけ、
「あいつは田舎者だから」
と納得せざるを得なかったわけです。
江戸っ子にとって「田舎者」とは「理解できない人」という意味で、それほど悪い意味じゃなかったんですね。