言葉を送る側と受け取る側の解釈には温度差がある

人を動かす

受け取る側の自由 

言葉を送る側と、受け取る側の解釈には、温度差があることをご存知だろうか?

「伝えたいことを伝え尽くした」と、あなたが会心の笑みを浮かべていたとしても、実は誤解を招いていることが往々にしてある。

その温度差は、時にビジネスで障壁となることがある。取り除く必要があるならば、努めて取り除かなければならない。なぜならば、誤解や勘違いされたままでは、売れるものも売れなくなってしまう。

マーケティングの基本がリサーチであり、相手の意思を確かめる作業が必要不可欠であるのは、高温と低温の温度差を埋め、心地よい温度にビジネス環境を保つためでもある。

こうした理屈では分かりにくいと思うので、早速いつものように例を挙げて説明しよう。

メルマガを読んで下さっている読者の藤井さんから、質問のメールが届いた。

それ以来、何度か交換したメールが、温度差の違いを如実に表わしている。ご覧あれ。


小笠原様

いつも「一国一城」を拝読させていただいております。

そのなかで、素朴な疑問がでてきましたので、書かせていただこうと思います。

小笠原様は、マイナスのストロークと、諫言との違いはどこに求めるべきだと考えていらっしゃるのでしょうか。

たぶん、前後の文体やその為人などから、判断すべきなのだろうと思います。

とても優秀で、実績も残していた人がいました。

彼は「自分は判断ミスなどするはずがない」と豪語していました。

しかし、自分の業務上の誤謬が部下から指摘されたのに、それに耳を傾けなかったことを起因にして、人生の坂をころころと転げ落ちていきました。

判断というのは、本当に難しいことだと思います。

これからも「一国一城」の配信を楽しみに待ちたいと思います。


はじめまして。

インターアクティブ社&経営者連邦の小笠原と申します。

マイナスのストロークと、諫言との違いは、どこに求めるべきか?というご質問にお答えします。求めに応じた回答になっていれば幸いです。

マイナスのストロークとは、嫉妬、不平、愚痴、陰口、悪口といった人を不幸に引きずり込むものです。本人の自覚の 有 無 に関らず、悪意が込められています。

自覚がないのに、どうして悪意のストロークを送ってしまうかというと、悪意に受け取った結果、何気なく、悪意をストロークしてしまうのです。

「No39 プラスのストローク」にも書きました通り、怒号にしても、愛から発せられる怒号と、単なる怒りから発せられる怒号は、まったく別の性格を帯びています。

良いように受け取り、良いように投げ返すか、悪いように受け取り、悪いように投げ返すか、たとえ結果が怒号になったとしても、問題の本質は大きく異なります。

ストロークは、発信だけの問題ではなく、受け取り方の問題でもあるのです。 

一方の諫言には悪意などありません。悪意とは真逆に、

「自分が被害を蒙ってでも、相手を善くしてあげよう」

とする、自己犠牲を伴った善意があります。

諫言といえば、平手政秀が格好の例です。

織田信長のために、織田家のために、割腹してまで諌めるなど、悪意に立脚していては、とても実現できませんね?

死を賭した自己犠牲、これぞ究極の諫言でしょう。

本人の自覚の有無を問わず、悪意が込められた言葉、それがマイナスのストローク。

その逆に、何とか良い方向へ進んで欲しいという善意に基づいているものの、非難に近い言葉になるのが諫言。

そう私は思います。

諫言を装いながら非難を浴びせ掛けている場合があります。

それは詭弁です。

改善策のない批評も、詭弁がかったマイナスのストロークです。

「ここがダメだ、ここが良くない、ここが違う」

と言うのは物凄くカンタンです。幼稚園児にだって言えます。

問題は「ダメ」では無くするために、どうしたらよいか、方法論なり、具体策まで考えられるかどうかでしょう。


そこまで突っ込んで一緒に考える、教える…それが詭弁がかった批評と諫言との違いです。

その諫言を、どう受け取るか、それは受け取る側の自由です。

藤井さんのお知り合いが如何なる御仁か存じ上げませんが、転がり落ちたのは、

        「自分は判断ミスなどするはずがない」

という慢心に起因するのではないでしょうか?

人間、誰だって判断ミスを犯します。それが当たり前なのです。だから傲慢になってはいけない。

その道理を踏み外して、道の外へ出たに過ぎないのではありませんか?それを昔から外道といいます。外道は滅びるのが自然の摂理です。余談。

さて、マイナスのストロークと諫言の違いはご理解頂けたでしょうか?

もちろん私なりの考え方ですので、取捨選択は御随意にお願いします。

小笠原様

「マイナスのストロークと、諫言との違い」について教えていただきまして、本当にありがとうございました。

例示を含めたとても理解しやすいご説明をしていただいたことに、大変感謝しております。

また、私のメールに小笠原さんが迅速に対応してくださった事により、

「スピード」のもつ力の大きさを、改めて認識した次第です。

最後に、「取捨選択は御随意に」と書かれていましたが、おそらく小笠原さんが大切に思われている人や、愛する人にはおそらく使われない言葉なのだろうと想像し、そのような人たちを羨ましくも思いました。

まだまだ寒いですが、陽射しはなんとなく春めいてきたような気もします。

お体にはお気をつけて毎日の活動に励んでください。


小笠原です。

教えたなんてとんでもない。

メルマガでも、経営者連邦でもそうなのですが、私なりの思考を伝達しているだけに過ぎません。あとは受け取る側の自由です。

解釈は、受け取る側(この場合は藤井さん)にお任せする他ないというのがコミュニケーションの基本ですから、努めて分かり易くした結果、藤井さんの賛同を得られたに過ぎず、ということは、教えたというより、正しく共鳴してくれたといったほうが正鵠を射ているでしょう。こちらこそ感謝いたします。

また、私のメールに小笠原さんが迅速に対応してくださった事により、「スピード」のもつ力の大きさを、改めて認識した次第です。

これは「クイックレスポンス」という営業の基本みならず、人と人とのコミュニケーションの基本でもありますね。

暑いか寒いかで生死を分かつ時があるように早いか遅いかで結論が180度異なる場合もあります。特にクレーム。

「打てば響く」とは、昔の人は良いことを言ったものです。たったそれだけで、人間関係が途切れずに繋がることもありますからね。

最後に、「取捨選択は御随意に」と書かれていましたが、おそらく小笠原さんが大切に思われている人や、愛する人にはおそらく使われない言葉なのだろうと想像し、そのような人たちを羨ましくも思いました。

いえ、使っていますよ。御随意にとは、投げやりに言っているのではなく、藤井さんの自由を尊重しているのです。(これが、発信者と受信者の温度差であり、解釈の違いです。取り除く必要があるならば、努めて取り除かねばなりません)

どう受取り、どう活用するか、それは受け取る側の自由であり、他の誰からも強制されることなき聖域です。その人なりの「考え方」です。

そう思って私は、相手の自由を最大限に尊重しています。

それを「御随意に」と表現している訳ですので、誰分け隔てなく使っております。

まだまだ寒いですが、陽射しはなんとなく春めいてきたような気もします。お体にはお気をつけて毎日の活動に励んでください。

ありがとうございます。藤井さんもお体ご自愛ください。

お分かりになったであろうか?

あなたも一度は、

「筆舌を尽しても尚、どうして分かってくれないんだろう?ナゼだ!」

と腕組みした経験があるはずだ。

それは顧客に対してであったり、擬似客だったり、上司であったり、部下であったり、配偶者であったり、いろいろな立場であると思う。

「どうして分かってくれないのか?」

それは受け取る側にも自由があるからである。発信者であるあなたにも発信の自由がある。

発信者の意図が伝わっていないだけなのだ。正しく伝えるには、交信あるのみ。正しい接触あるのみである。

言いたいことを言い尽くした

たとえばチラシやDMに商品の素晴らしさ、価格の正当性、購買への必然性を書き尽くしたとする。

この時、受け取る側の自由を忘れてはならない。

あなたが「このように受け取って欲しい」と思うならば、そこへ到達してもらうような戦術を練るのだ。これがプロモーションの戦略性であり、拙著で説くところの「水路を引く」ということである。

あなたが発信した内容に賛同を得、正しく共鳴してもらうように水路を引こう。

マーケティングとは、人を動かす技術である。

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