城は軍事に利用するのが明智光秀で、城を政治に利用するのが織田信長

著者のエッセイ


日本史に興味がなくても、織田信長と、明智光秀の名前くらい、聞いたことがありますよね?
明智光秀の謀反で、織田信長が斃れるまでを書いた、堺屋太一氏の名著「鬼と人と」には、二人の相対的なモノの見方や考え方が記されています。
たとえば、安土城の落慶。
時に西暦1582年、信長は、今の滋賀県は琵琶湖畔に、絢爛豪華な山城を築きました。
安土城です。
安土城は、街づくりを含めた新しい殷賑の府のかたちとして築いた城ですから、

軍事拠点というよりも、政治利用の城

であり、それには絢爛豪華である必要がありました。
不動産屋さんがメルセデスベンツに乗るようなものです。
その壮麗な城を見た光秀は
「侘びも寂びもなく、落ち着かない」
と言ったとか。 
信長にしてみれば、侘びも寂びもヘッたくれもありません、政治が目的の城ですから、天皇を招く御殿も要りますし、民衆を集める華やかさも必要です。
そこまでの城の本質が、光秀には考え及びませんでした。

城は、軍事拠点 としか考えられなかった光秀に対し、 城に、軍事以外の利用価値を見出した信長

 さらに、安土城を終の棲家にするつもりはなく、最終的には摂津(大坂)石山 の地に、天下布武が完成した象徴となる巨城を建築するつもりでした。

その構想を引き継いだのが豊臣秀吉

大坂城です。総構えは
  • 北は大川
  • 東は平野川
  • 南は長堀通
  • 西は東横堀川
  • 真田丸は真田山公園のやや北
  • 玉造駅の近辺
この理解で合ってるでしょうか?
大坂城にあった本願寺へ立ち退きを命じたのも、石山が最適と考えていたため。大阪城を首都のランドマークにしようと考えていたからでしょう。

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